パリの地下に眠るもの
「今あなたが立っている地面の下に、キリンとオカピの骨格が眠っているわよ」
生まれて初めて降り立ったパリの街で、フランス訛りが入った英語で笑いながらそんなことを言われた。思わず立ち止まり、足元をじっと見る。何度か軽く足踏みをした後、顔を上げ、前を進む案内者の背中を追った。
突然だけれど、私はキリンの研究をしている。動物園から献体されたキリンの遺体を解剖し、骨格や筋肉の構造を調べ、「長い首に隠された進化の謎」に挑む。これが私の仕事だ。
2013年7月末、私はパリの中心部にあるフランス国立自然史博物館に来ていた。当時の私は、キリンの首に隠された「第8の”首の骨”」の存在を明らかにすべく、研究に邁進していた。キリンの首の根元には何か特殊な構造がある。そんなことに気がつきはじめた頃だ。
キリンの骨格の特殊さを理解するには、近縁種であるオカピとの比較が必須である。ところが日本国内にはオカピの骨格標本はたった1個体しか存在していない。そのためオカピの骨格標本をじっくりと観察するために、遠路はるばるパリまでやってきたのだ。
パリ5区で電車をおり、王立植物園の敷地に入るとすぐに古めかしい建物が目に入ってくる。「比較解剖と古生物のギャラリー」だ。
建物の中には、来館者を見つめるような形で数多の骨格標本が並べられている。生きているわけでもないのに、無数の視線と生命の圧力のようなものを感じ、思わず息を飲む。部屋の真ん中には、まるで何かからこの場所を守る神獣のように2頭のキリンの骨格標本が据え置かれている。
ギャラリーの前の並木道をまっすぐ進んでいくと、今度は大きな白い建物が見えてくる。進化大陳列館と呼ばれるこの施設の中では、様々な動物の剥製が展示され、生命の進化について様々な観点から学べるようになっている。2階のフロアー全体には、ゾウを先頭にして大小様々な動物たちがまるで行進してるかのように並べられた展示が広がっていて、圧巻の一言だ。
同じ敷地内には、動物園もある。古いアンティークの棚の中でカメやトカゲが飼育されていて、さすがパリと思わせるおしゃれな展示だ。上野動物園のモデルとなった場所ということもあり、始めてきた場所だがどこか懐かしさを感じるような気もする。
そうは言ってもここは海外なので、どこか不安でそわそわした気持ちになってしまう。手元の地図を見ながら、目的地を目指してひたすら進む。
今回の目的であるオカピの骨格標本は、博物館の展示施設ではなく、バックヤードに保管されているらしい。博物館の展示施設を素通りし、植物園の裏通りに出て、角を曲がる。人気がない道をしばらく歩くと、古びた建物にたどり着いた。ここだ。建物の入り口には、「Collections ostéologiques et fluides」と書かれている。フランス国立自然史博物館の骨格標本・液浸標本の保管室だ。
天下のフランス国立自然史博物館の収蔵庫なのに、そんなに大きくないなあ。そう思いながら玄関にある受付のベルを鳴らす。映画でしか聞いたことのないような、ジィーという鈍いベルの音が鳴り響き、中から背の高い明るい女性のスタッフが現れた。
簡単な挨拶を済ませると、彼女は「あなたのお目当ては別の場所にあるから、案内するわね」と言い、スタスタと歩き出してしまった。慌てて後を追い、拙い英語で自己紹介をしながら、先ほど通ったばかりの道を歩いて植物園の敷地内へと戻る。博物館の本館である進化大陳列館の前についたところで、案内人の女性はおもむろに立ち止まり、にやっと笑いながら、冒頭のセリフを口にした。
「今あなたが立っている地面の下に、キリンとオカピの骨格が眠っているわよ」
お目当のオカピは、どうやらパリの街の地下に眠っているらしい。
地下の楽園
案内人は、植物園をまっすぐ横切り、端っこにある門扉の前で立ち止まった。「ここから地下に降りるからね」と言い、手に持った鍵で門を開け、中に入るように促す。
どこからどうみても、国の施設の正式な入り口には見えない。「かつて地下牢として使用されていた施設の出入り口です」と言われた方がしっくりくるかもしれない。苦手な英語でやりとりをしているのもあり、本当にここで大丈夫なのか、不安な気持ちが胸に広がる。
「ここ?」と聞き返してみたが、再び笑顔で中に入るよう促されてしまったので、覚悟を決めて言われた通りに門をくぐる。目の前にある階段を降り、階下で案内人を待つ。階段の上から、ガシャン、と門が閉じる音が聞こえた。軽快に階段を降りてくる彼女の姿を見て、「閉じ込められてしまった」とみぞおちの奥が少しキュッとなる。
こっちよ、と誘われ、狭い地下道をついていく。時折、天井にはめ込まれた格子状の排水溝の蓋から太陽光が差し込んでくる。植物園内を散歩する人たちの話し声や、足音も聞こえる。確かにここは、先ほど私が立っていた植物園の地下にあたるようだ。数メートル地下にいるだけなのに、なんだか別世界に来てしまったかのような気分だ。
複雑に入りくんだ地下通路をしばらく歩くと、突き当たりに扉が見えた。扉の横には、博物館で売られているのであろう動物のポスターが貼られていた。ビントロングという動物が木の上でぐったりしているポスターが可愛らしい。一体ここはどこだろうか。博物館の本館の地下あたりだろうか。もともとの方向音痴さもあって、自分がどこらへんにいるのか、さっぱり検討もつかない。
扉の先は、エレベーターホールになっていた。右手には、薄暗くひんやりとした廊下がまっすぐ伸びている。廊下の左右に、無機質な扉が転々と並んでいるのが見える。エレベーターでさらに地下に潜る。
エレベーターの中で「収蔵庫、地下にあるんですね」と話しかけてみる。案内人の女性は笑いながら、「空襲で大事な標本が燃えてしまわないように、地下にしまってあるのよ」と答えた。地上の建物が空襲で燃え尽き、地下の標本だけが残る。言われた光景を想像し、少しゾッとする。そんな未来がこないことを祈るばかりだ。
チンッという音とともに、エレベーターが止まった。一体ここは地下何階なんだろうか。エレベーターを降りた案内人の女性は、まっすぐ続く薄暗い廊下を進んでいく。「ここがトイレね」と廊下の右手にある扉を指差したあと、トイレの斜め向かいにある部屋の鍵を開けた。扉の向こうは真っ暗で、何も見えない。
中に入り、電気をつけてもらう。廊下が薄暗かったため、白熱電球の眩しさに思わず目をつぶる。数秒後、再び目を開くと、可愛らしいアカカワイノシシの剥製の姿が飛び込んできた。岩の上に乗ったムフロン(羊のなかま)の剥製も見える。奥の方には、キリンやオカピの毛皮がチラッと見えている。
どうやら私が今いる地下室が、フランス国立自然史博物館のメインの収蔵庫のようだ。外観が見られないため、一体どれくらいの大きさの施設なのか、検討もつかない。
部屋の奥に進むと、「Okapia johnstoni」と書かれた紙が貼られている緑のコンテナボックスが目に入った。オカピの学名だ。Johnstoniとは、オカピの発見に大きく貢献したイギリスの探検家ハリー・ジョンストン氏にちなんだ名だ。
隣の箱にはキリンの学名が書かれた紙が貼ってある。どうやら、この箱の中にキリンやオカピの骨格標本が入っているらしい。
室内にある机に案内され、調査の際に気をつけるべきことの説明を受ける。最後に「それじゃあ、あとは好きに骨格標本を観察してね。楽しんで!」と声をかけられ、こちらも笑顔で丁寧にお礼を伝える。
仕事に戻ろうとする彼女の背中を見送りながら、「そういえば、帰りはどうすればいいんだろう」という疑問が頭に浮かぶ。さっきの道を一人で戻ることは絶対にできない。やばいと思って声をかけようとした瞬間、彼女は「あ、忘れてた!」と言って振り返り、「16時になったら迎えにくるね」と言って颯爽と去っていった。